From 飯嶋秀治

私が生前、保苅さんと直接お会いしたのは、4回だけだったと思う。

2000年6月24日、国立民族学博物館オーストラリア研究会では、もう彼の博士論文の骨子は固まっており、10枚のレジュメに2枚の地図をもって発表に臨んでいた。その研究史のまとめ方の手際の良さと、先住民の語りの興味深さに引き込まれたのをよく覚えている。グリンジの人々のアウトステーション運動が、先行研究の強調してきた経済や政治の側面のみではなく、グリンジの狩猟採集の慣習や、ドリーミング(彼は先住民独自の世界感覚の仕方を、僕らの常識的な「時間」に投影してしまう「ドリーム・タイム」という術語を意識的に避けていた)に基づいた判断の側面を強調した発表をした。その膨大な先行研究サーヴェイの蓄積以上に、先住民調査の倫理的なマナーに目を見張った。研究会にはこれまで研究会をリードしていた先輩たちが多く列席していたが、皆それぞれの深みで何らかのインパクトを受けており、まさに「期待の新人」の登場といった感じであった。

2000年9月、私がキャンベラに着いた日、町をあちこちを歩いているとANUに向かう私とは反対方向に向かう保苅さんを見かけた。風貌は長髪、痩身で、やや寒くもあり黒いタートルネックを来て市街地の公園へ向かって消えた。「坂本龍一みたいだなぁ」と思った。実は初めてキャンベラで先住民を見かけた際、数名いた先住民の一人から、胸を小突かれた事があったのだが、その話をしたところ、「じろじろ見ていたからじゃない?」と完全に先住民サイドから見ているのが今から思い返すと意味深い。その日は、彼がシェアメイトと暮らしている家でディナーを作る番だったとかで、日の沈むキッチンでナシゴレンを作った。彼は指で米の水の量を計ると「料理ができると良いのは、アボリジニのところに行ったときに御馳走をふるまえる事なんだよね」と言い、ベジタリアンのシェアメイトのことを考え、肉抜きのナシゴレンを作った。

2001年3月、キャンベラANUキャンパスの当時の彼の研究室にはCDが机の上や脇に山積みのようになっていた。私がキャサリンに滞在したとき、キャサリンの有名な温泉で先住民の少年たちに出会ったのだが、「ミノ、知ってる?」と言われ、まさかと思いながら「ミノって、ホカリ・ミノの事?」と訊き返すと「そう」と言われ、「えっ、なんでミノのこと知ってるの? まさかグリンジ?」とまた訊き返すと、「そう! 僕たち、ダグラグから来たんだ!」という展開になったのだった。驚くべきはその後の展開で、その後、別の先住民少年達に、銀行から下ろしてきたばかりの500ドルを盗まれ、その時、犯人の同定に協力してくれたのがこのグリンジ少年で、そのおかげで私は300ドルを取り返したのである。その話を聞くと保苅さんは喜んで、「じゃぁ今頃ダグラグは大騒ぎで、次に行ったら大物語になってるかもね」と笑って話した。

2001年7月22日、国立民族学博物館オーストラリア研究会では、彼は既に博士論文を提出し、オーストラリアの研究者、特に歴史家から複数の高い評価を受取っていたので、既に次のテーマとしてアボリジニと近代の経験を「矛盾」と「思惟」という観点から論じた。この時の発表は前回と打って変わって理論的な抽象度の高い議論であった。この時の飲み会の時だったかと思うが、研究会後の飲み会の席で、「僕、じつは、これからトイレの落書き研究って真面目にやりたいんですよね」と喜々として語っていたのも覚えている。「関心の幅が広いなぁ」と思った。

私が直接会って覚えている保苅さんはこのようなものである。最初の出会いから最後に至るまで、私の中の保苅実さんは、なによりも惜しみなく与える人であったように思う。

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