Archive for the ‘Episode’ Category

From 佐藤睦朗(2)

Friday, October 8th, 2010

私が保苅実君と最初に出会ったのは、1992年4月上旬のことでした。当時私は大学4年生、彼は3年生でした。藤田ゼミの選考日であったその日、スーツ姿で緊張した3年生が藤田研究室の前でゼミ面接を待っているなか、一人定刻から少し遅れて普段着の男性がふらりと現われ、笑顔で一言、「ここ藤田ゼミの面接場所ですよね!」。それが保苅君でした。私の場合、最初に会った状況を覚えていることは稀なのですが、この保苅君との最初の出会いは、18年も経過した今でも鮮明に記憶しています。その時の屈託のない笑顔も。

保苅君の笑顔といえば、もう一つ忘れられないシーンがあります。1996年1月、私は博士課程一年、彼は修士課程二年で、修士論文を提出した直後でした。藤田ゼミ(大学院)で修士論文の概要(後に『歴史学研究』に掲載された論文は、この修士論文が基になっています)を報告した際に、彼が伝統的な歴史学の手法で修論をまとめたものの、それを超えた何かを模索しているように感じられました。その模索の方向性が、清水透先生のご研究と似ているかもしれないと思いました。私は大学4年生の時に、清水先生の講義を拝聴して、大変感銘を受けていました(保苅君は、学部生時代に清水先生の講義を受ける機会を逃していました)。そこで清水先生のご著書である『エル・チチョンの怒り―メキシコにおける近代とアイデンティティ』―』(東京大学出版会、1988年)を、ゼミ終了後に大学院生の研究棟に戻ってから、保苅君に貸してあげました。すると翌日、彼は (大学院生共同の)研究室を訪ねてきて、「一気に読みました。この本、僕も買います。僕が目指す研究方向ですよ」と言いながら返却しに来てくれました。その時の嬉しそうな笑顔を、私は今でも忘れずに覚えています。

その後はお互いが海外留学をしたこともあって、少しずつ接点が少なくなっていきました。それでも、保苅君は定期的にメールを送ってきてくれました。そこからは、いつも笑顔が絶えない感じでした。今、私の研究室の机には、笑顔の保苅君の写真があります。あの時の笑顔が、ここにあります。

From 清野桂子

Friday, August 20th, 2010

まず最初に覚えているのは、晴れて新潟高校に入学した初日のことでした。担任の宮田先生が、「この中で在校生か卒業生に兄弟姉妹がいる者!」と手を上げさせました。私も2才上の姉が在学しておりましたので挙手しましたが、保苅くんも手を上げました。宮田先生が「あの保苅の弟か。ふんふん」と意味深なうなずきと笑みを浮かべたのをよく覚えています。保苅くんは「その笑顔はどういう意味ですか!」というようなことを笑いながら言ったと思います。最初から先生と物怖じせずに話せるというだけで、私には驚きでした。他にも何人か挙手した生徒はいたのですが、宮田先生が強く反応したのは保苅くんだけだったように思います。

彼は最初からとても目立っていて、新潟高校にはすごい人がいる!と15歳ながらに感じ、その後もずっと、あこがれと尊敬と不思議さが入り混じったような感情で保苅くんを見ていました。

まだ1学期だったと思いますが、休み時間に何かちょっとしたことで保苅くんと話す機会がありました。話の内容は残念ながら忘れてしまいましたが、私が何か一言言ったのを1とすれば、保苅くんの返答は10くらいあり、論理的でありながら私の全く予想のつかない見地からの意見を軽く返されて、心の中で「この人と言い合っても絶対に勝てない」と強く思ったのを覚えています。

保苅くんを再び目にしたのは、大学時代の就職活動の頃です。「リクルート」という就職活動をする大学生向けの雑誌に、保苅くんが載っていました。こんな学生もいる、といった「フロントランナー」的な扱いで、あいかわらず保苅くんはとんがってるなぁ、と感じると同時に、やっぱり新潟ですごいだけではなく、東京でもすごい奴だったんだ、将来絶対に大物になるに違いないという思いも新たにしました。

From 飯嶋秀治

Friday, August 20th, 2010

私が生前、保苅さんと直接お会いしたのは、4回だけだったと思う。

2000年6月24日、国立民族学博物館オーストラリア研究会では、もう彼の博士論文の骨子は固まっており、10枚のレジュメに2枚の地図をもって発表に臨んでいた。その研究史のまとめ方の手際の良さと、先住民の語りの興味深さに引き込まれたのをよく覚えている。グリンジの人々のアウトステーション運動が、先行研究の強調してきた経済や政治の側面のみではなく、グリンジの狩猟採集の慣習や、ドリーミング(彼は先住民独自の世界感覚の仕方を、僕らの常識的な「時間」に投影してしまう「ドリーム・タイム」という術語を意識的に避けていた)に基づいた判断の側面を強調した発表をした。その膨大な先行研究サーヴェイの蓄積以上に、先住民調査の倫理的なマナーに目を見張った。研究会にはこれまで研究会をリードしていた先輩たちが多く列席していたが、皆それぞれの深みで何らかのインパクトを受けており、まさに「期待の新人」の登場といった感じであった。

2000年9月、私がキャンベラに着いた日、町をあちこちを歩いているとANUに向かう私とは反対方向に向かう保苅さんを見かけた。風貌は長髪、痩身で、やや寒くもあり黒いタートルネックを来て市街地の公園へ向かって消えた。「坂本龍一みたいだなぁ」と思った。実は初めてキャンベラで先住民を見かけた際、数名いた先住民の一人から、胸を小突かれた事があったのだが、その話をしたところ、「じろじろ見ていたからじゃない?」と完全に先住民サイドから見ているのが今から思い返すと意味深い。その日は、彼がシェアメイトと暮らしている家でディナーを作る番だったとかで、日の沈むキッチンでナシゴレンを作った。彼は指で米の水の量を計ると「料理ができると良いのは、アボリジニのところに行ったときに御馳走をふるまえる事なんだよね」と言い、ベジタリアンのシェアメイトのことを考え、肉抜きのナシゴレンを作った。

2001年3月、キャンベラANUキャンパスの当時の彼の研究室にはCDが机の上や脇に山積みのようになっていた。私がキャサリンに滞在したとき、キャサリンの有名な温泉で先住民の少年たちに出会ったのだが、「ミノ、知ってる?」と言われ、まさかと思いながら「ミノって、ホカリ・ミノの事?」と訊き返すと「そう」と言われ、「えっ、なんでミノのこと知ってるの? まさかグリンジ?」とまた訊き返すと、「そう! 僕たち、ダグラグから来たんだ!」という展開になったのだった。驚くべきはその後の展開で、その後、別の先住民少年達に、銀行から下ろしてきたばかりの500ドルを盗まれ、その時、犯人の同定に協力してくれたのがこのグリンジ少年で、そのおかげで私は300ドルを取り返したのである。その話を聞くと保苅さんは喜んで、「じゃぁ今頃ダグラグは大騒ぎで、次に行ったら大物語になってるかもね」と笑って話した。

2001年7月22日、国立民族学博物館オーストラリア研究会では、彼は既に博士論文を提出し、オーストラリアの研究者、特に歴史家から複数の高い評価を受取っていたので、既に次のテーマとしてアボリジニと近代の経験を「矛盾」と「思惟」という観点から論じた。この時の発表は前回と打って変わって理論的な抽象度の高い議論であった。この時の飲み会の時だったかと思うが、研究会後の飲み会の席で、「僕、じつは、これからトイレの落書き研究って真面目にやりたいんですよね」と喜々として語っていたのも覚えている。「関心の幅が広いなぁ」と思った。

私が直接会って覚えている保苅さんはこのようなものである。最初の出会いから最後に至るまで、私の中の保苅実さんは、なによりも惜しみなく与える人であったように思う。

From 母・保苅桂子(2)

Tuesday, July 13th, 2010

ミノルの幼い頃、私たち家族は彼のことを「ムーミン」と呼んでいました。いつも物静かで穏やかな彼の雰囲気は、まさにムーミンそのものでした。その頃、父親の勤務先の社内誌に、3才になった我が子を紹介するという企画がありました。私は写真に添えて、当時流行のコマーシャルを使い「腕白でもいい、逞しく育ってほしいという親の願いに反して、僕はとてもとても大人しい男の子なのです」と書きました。

幼稚園に通い外で遊ぶようになってから、土が好き、草むらが好き、高いところが好き、木登りが好き・・・な、とっても活発な男の子に変身しました。コタツの上から、テーブルから、父親は彼を整理箪笥の上にまで乗せ、飛び降りるのを楽しそうに見ていました。外で遊ぶ彼を迎えに行くと、ブロックの塀の上を歩いていました。手を伸ばす彼に「自分で登ったんだから一人で降りてごらん」と言ったら、塀の上から一回転して落ちましたが、怪我もせずクルッと起き上がりました。私も随分勇気のある母親でした。

外では木登りが高じて、街灯のポールにまでスルスルと登れるようになりました。見ていた人達が歓声上げてスゴイ、スゴイと笑ってくれるので、彼はとても得意でした。幼稚園のブランコを高くこぎ過ぎて、座ったままブランコのてっぺんに逆さまにぶら下がったこともありました。幼稚園始まって以来の出来事だったようで、その後は、こぐ回数が制限されました。幼稚園の先生は「保苅君はとてもしっかりしていて頼りになるので、迷うことがあると何でも彼に相談するんですよ」と言っておられました。

小学生になると日記など文章を書くようになりました。小学3年の夏休みに日記を書くとき、「朝起きて顔を洗ってご飯を食べて友達と遊びましたなんて、やったことをズラズラ書いても面白くなくて誰も読む気がしないよ」「したこと日記ではなく、『考えたこと感じたこと日記』を書きなさい」と言ったことがあります。

その頃の日記には「今日、僕は金魚を見ていました。金魚鉢の金魚は僕が見ていることを知らず悠々と泳いでいました。こうして金魚を見ている僕のことも、上から見ている何かがいるのかなあ」「僕は庭ではいつも裸足で遊びます。土はとっても温かいけど、裸足になったことの無い人には、この温かさ分からないだろうなあ」とありました。まさに考えたこと、感じたこと日記でした。

彼の日記の一つ一つに「早寝早起き」「本を好きになるには」「テレビの獅子の時代が終わった」「夕日」「うちの金魚」「あーあ落ちちゃった」「やっと勝った!」「冬はやっぱりプラモデル」「自分で考えゲーム」「うたたね」「リトルリーグのためなら」・・・等々「題」が付いています。

三年生の冬休みの日記 (12月30日)
「日記」
「冬休みの勉強で一番楽しいのが、この日記です。日記を書き終わると、いつもお母さんに見せるのですが「だんだん上手になってきたね」と言われます。そうなると、なおさら日記が好きになってきます。これからは、春休みにも日記を書くつもりです。学校がある日は、日曜日だけ書くことにしました。なぜか不思議に日記を書いていると、次にどういうことを書くかがすぐに頭にピンときて、パッパと日記を書いてしまいます。これからも日記は続けていきたいと思います。」

とありますように彼は日記を書き続け、4年生の夏休みには先生が次のように誉めて下さった日記へと続きます。いつか機会がありましたらご紹介したく思います。

担任の先生より
大変楽しく読みました。おもしろかった理由はこんなところにあるのかな。

・ 毎日、日記の題をかんがえていること。
・ きどらないで、自分の気持ちや、考え、思ったことを素直にかいていること。
・ 自分以外の人を登場させて、会話や様子をかいていること。それについての保苅君の考えがかいてあること。
・ 文のつくりが読みやすく、すじが分かること。

そのほか沢山ありますが、保苅君らしさがよく出ています。そこが一番気に入りま
した。また、ノートに続けて書いてください。楽しみにしていますよ。

From 佐藤睦朗(語る会)

Friday, May 28th, 2010

保苅君が亡くなったという連絡が入った数日間は呆然として仕事に全く集中できない状態でした。貴方と同じようにお酒がほとんど飲めない私が、アルコールを飲まないと眠ることができない日々が続きました。ですが「一分、一秒でも大切に」という貴方の最後のメッセージを読んで、貴方の分まで頑張らなくては、と思い直しました。今回の語る会では、微力ながら会場の整備に全力を尽くします。

保苅君が一時帰国した際に、国立で昼間から大騒ぎをしたことを今でもよく覚えています。残念ながら私が直接保苅君とお話ができたのは、それが最後となってしまいました。まだまだ多くのことを語り合いたかったのですが。オーストラリアのこと、スウェーデンのこと、研究のこと歴史学のこと等々。残念ですが、それはかなわぬ夢となってしまいました。

でも、貴方の本が出版されることから、そこから貴方と対話をすることができるような気がします。本当にすばらしい業績をあげましたね。何度も拝読して勉強します。

本当におつかれさまでした。今は安らかにお休みになってください。わたしたちは決して貴方のことを忘れません。病気と闘いながらも、常に前に向かって走り続けた貴方は本当に立派です。学部・院生時代となぜか私は保苅君より一学年年上ということで先輩なるものでしたが、人生においては間違いなく貴方のほうが先輩です。

(一橋大学、大学院時代藤田ゼミ)

From 野上元(2)

Saturday, May 15th, 2010

1992年度一橋大学経済学部・藤田幸一郎ゼミ(学部3年次)で輪読した文献のリスト(思い出せる限りで・・・)

マリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者』
カール・ポランニー『大転換』
ウォーラスティン『史的システムとしての資本主義』
エリアーデ『聖と俗』
マーシャル・サーリンズ『石器時代の経済学』
ニコラス・ジョージェスク=レーゲン『経済学の神話』
イリイチ『シャドウ・ワーク』

(一部4年次で読んだのが入っているかもしれません)
どれも印象的な本ばかりでした。今から考えてもこれらはすごいセレクションで、これを3年次で次々と読んでいくというのは、極めて贅沢な環境だったといえると思います。上記のどの本を手にとっても、「彼」を感じることができるのではないでしょうか。

From 母・保苅桂子

Monday, May 10th, 2010

>> 息子・実との思い出

彼の幼い日々は好奇心と楽しさに溢れていました。幼い頃から彼の心も体も束縛を嫌い、ボタンのない洋服を好み、庭ではいつも裸足で遊んでいました。てんとう虫や蟻と終日遊び、金色の蜘蛛を見つけて興奮し「お母さん土ってとっても暖かいんだよ。裸足になったことのない人には、この暖かさは分からないね」と、得意そうでした。

夜,ベッドに入ってからも「今日の月はとってもきれいだよ。見てごらん」と、階下にいる私達に声をかける子でした。絵画展でもコンサートでも彼はとても静かでした。本も沢山読みました。小学校4年生時、彼が感動した本の著者「灰谷健次郎」の講演会にも行きました。海で泳ぐのも大好きでした。活発でしたが思慮深く好奇心旺盛なとても楽しい子供でした。

小学5年生の時には歴史の授業で習った「金印」が見たいと、東京上野の国立博物館まで一人で鈍行に乗って行きました。少し不安そうにしていたので「目と耳と口があれば何処にだって行けるよ」と励ますと「じゃあ鼻はいらないね」と、笑いながら出かけていきました。朝と夕で代わる乗客の様子、清水トンネルの中にある駅の話・・・、そんな話を聞くのが私は大好きでした。だから校則に違反しても、彼のやりたいということは何でもさせてやりました。夜中の3時に起きて、長いサオを背に1時間も自転車をこいで魚釣りにも行きました。「まるで佐々木小次郎だね」とからかったことが昨日のことのように思われます。中学生のときには佐渡1周の自転車旅行もしました。

高校の合格発表を見たその足で、彼は京都・奈良の一人旅に出かけました。清水寺から「開場と同時に入った寺には僕ただ一人。すがすがしさと静けさの中で感動のあまり涙が溢れた。この旅を許してくれた両親に感謝したい」というのが彼の第一声でした。京都の寺々の庭の美しさにも感動の声を上げていました。梅原猛の「法隆寺の秘密」を読み、本を持参して行った法隆寺からの報告は、夢殿のこと、聖徳太子のこと、宿坊のおばさんのこと、貸し自転車で廻った奈良の寺々のこと・・・、彼の報告は興味と感動に溢れた本当に楽しいものでした。彼は何でも話してくれました。会話の多い家庭でした。

新潟は狭いといって東京の大学で学び、日本も狭いとオーストラリアに飛び、広大な大地で一心不乱に学び、遊び、彼はまるで風のように爽やかに私の元から去って行ってしまいました。彼の何ものにも束縛されない柔らかな精神はあらゆるものを吸収し、人を、自然を、大地を、月を、星を・・・全てを愛する豊かな人となりました。彼の最大の幸せはアボリジニの人々に出会ったことでしょう。

彼の人間関係に上下はありませんでした。親戚の叔母さんの話もおじいちゃんやおばあちゃんの話も、彼は誠実に聞きました。豊かな精神性を持った彼の文章が美しいのは当然です。私はもう二度と彼のような若者に出会うことはないでしょう。

もし病を克服出来たなら学問とは全く関係ない本を書きたいと、病床でその構想を楽しそうに語っていました。書いて欲しかった、読みたかったと、思うのは私だけではないでしょう。

From 永山のどか

Monday, May 10th, 2010

私は一橋大学の藤田幸一郎先生のゼミで保苅さんのお世話になりました。ただ私が大学院に進学したのは、2000年ですので、保苅さんは既にオーストラリアにいらっしゃいました。実際にお会いしたのは、途中帰国なさってゼミに参加されていた4~5回だったと思います。回数としてはあまり多くはないのですが、保苅さんの「登場」は私にとって強烈なものでした。

保苅さんはゼミの報告で、オーストラリアのアボリジニへの謝罪問題について「連累」の重要性をテーマにお話なさいました。保苅さんは「連累」という概念を学問的に説明して下さいましたが、実生活のレベルでは(保苅さんが皆に贈って下さった手紙にも書いてあった)人と人とが「繫がる」ということを意味しているのだと思います。広い視野をもった報告だと、先生が感心されたのを今でもはっきり覚えています。また、声がとても大きかったこと、報告の途中の区切りの良いところで、ペットボトルの飲み物をごくごくと飲んでいらっしゃったことも覚えています。飲み終わりに「はあ」と気合を入れ直して、報告再開です。

保苅さんがゼミに参加されていた時は必ず、その後に食事に行きました。保苅さんがゼミの皆に声をかけてくれるのです。藤田ゼミは今でも1年に1~2回懇親会を開くのですが、そのきっかけを保苅さんが作ってくださったのだと思っています。

また、去年、国立駅のホームで『ラディカル・オーラル・ヒストリー』を真剣に読んでいる男性(学生だと思います)を見ました。

From M.S.

Monday, May 10th, 2010

あれは私が高3の受験シーズン真っただ中、保苅さんは大学2年のときのことです。私は大学受験の滑りどめで受けた、ある私立大学に不合格となりました。教師や親に、どうしたんだ!と責められ、行き場をなくした私は保苅さんに電話しました。

「S女子大落ちちゃったんです。。。」すると、保苅さんは驚いた風もなく、「で、どうするの?」といいました。「え?」慰めでも激励でもなく、「どうするの?」という質問が返ってくるとは思いもせず、動揺しました。「で、どうするの?S女行きたかったの?第一志望はそこじゃないでしょ?」「うん。」「そう、第一志望までまだ日があるんだから、それ目指して頑張ればいいだけじゃん。」

目の前がパッと明るくなりました。そうだった。変に慰めたり叱咤する周りの大人たちに惑わされ、自分が何を目標にしているのか見失いかけていた私に、保苅さんは、今何が必要なのかを考えさせてくれました。

結果は、なんとか第一志望に合格。要は自分、という、保苅さんのスタンスを私の中で確固たるものにした出来事でした。

From 酒井順子

Monday, May 10th, 2010

保苅さんにお会いしたのは、2002年か3年のことでした。最初は、慶応大学の松村高夫先生のゼミで保苅実さんの発表を聞き、そして、その後だったと思いますが、私の指導教授だったポール・トンプソンが慶応大学の招聘で日本に来たとき、慶応大学でのセミナー、東京外国語大学のシンポジウムでお会いしました。確か、この3回だけだったとおもいます。

慶応でのセミナーにおいて、白蛇の話や洪水の話を聞いたときには、私自身がイギリスでのライフストーリー・インタビューによるオーラル・ヒストリーの枠しか知らなかったので、よく理解できなかったかもしれません。しかし、実さんの情熱的な語り口、そしてオープンな話しかた、そしてなぜか髪の一筋が赤くなっていて、とてもおしゃれな感じがしたのが印象的でした。とにかく、強烈な印象でした。

最初にあったとき、「僕の研究もオーラル・ヒストリーですよね?」とおっしゃったので、「オーラル・ヒストリーを狭く定義する必要はないと思います」といったような、私の指導教授がいつも言っていたことを繰り返したことを覚えています。

その後、自分自身も頼まれて、口述文化について書くことになったとき、イギリスのオーラル・ヒストリーの先駆者、「ジョージ・ユアート・エヴァンス」の作品を読む機会がありました。彼の著作の中に、「成長する石」の話が出てきます。その石は19世紀に掘り出された石で、発見された当初はこぶし大だったのですが、毎年、成長し、今では2メートルぐらいの石になっています。村人は、その両端が少し浮いている石について、「去年は猫が石の下を通ったけれど、今年は犬が通ったと話していた」そうです。

もし、保苅さんの本を読んでいなかったら、私はこの石にさほど興味を惹かれなかったと思います。その石の話の意味を探りたいとおもって、私はサフォークのその村まで訪ねていってみました。結論としては、20世紀に入っても相対的に遅れた地域の村人が、石だらけの農地を耕していた苦労を象徴する話だったのだろうとおもい、自分の解釈を論文の中に書いてみました。

もちろん、保苅さんのように深い考察にはなっていませんが、それでも、保苅さんの研究が私たちに与えたインパクトはとても大きかったと思います。もし、ご病気になられなかったら、もっともっと私たちにインパクトを与えてくれたことと思います。

道半ばにして倒れられた保苅さんの無念はとても強く伝わってきますが、私たちにもとても無念な気持ちを持たせた人だと思います。