Archive for the ‘2. Elementary’ Category

From 母・保苅桂子(2)

Tuesday, July 13th, 2010

ミノルの幼い頃、私たち家族は彼のことを「ムーミン」と呼んでいました。いつも物静かで穏やかな彼の雰囲気は、まさにムーミンそのものでした。その頃、父親の勤務先の社内誌に、3才になった我が子を紹介するという企画がありました。私は写真に添えて、当時流行のコマーシャルを使い「腕白でもいい、逞しく育ってほしいという親の願いに反して、僕はとてもとても大人しい男の子なのです」と書きました。

幼稚園に通い外で遊ぶようになってから、土が好き、草むらが好き、高いところが好き、木登りが好き・・・な、とっても活発な男の子に変身しました。コタツの上から、テーブルから、父親は彼を整理箪笥の上にまで乗せ、飛び降りるのを楽しそうに見ていました。外で遊ぶ彼を迎えに行くと、ブロックの塀の上を歩いていました。手を伸ばす彼に「自分で登ったんだから一人で降りてごらん」と言ったら、塀の上から一回転して落ちましたが、怪我もせずクルッと起き上がりました。私も随分勇気のある母親でした。

外では木登りが高じて、街灯のポールにまでスルスルと登れるようになりました。見ていた人達が歓声上げてスゴイ、スゴイと笑ってくれるので、彼はとても得意でした。幼稚園のブランコを高くこぎ過ぎて、座ったままブランコのてっぺんに逆さまにぶら下がったこともありました。幼稚園始まって以来の出来事だったようで、その後は、こぐ回数が制限されました。幼稚園の先生は「保苅君はとてもしっかりしていて頼りになるので、迷うことがあると何でも彼に相談するんですよ」と言っておられました。

小学生になると日記など文章を書くようになりました。小学3年の夏休みに日記を書くとき、「朝起きて顔を洗ってご飯を食べて友達と遊びましたなんて、やったことをズラズラ書いても面白くなくて誰も読む気がしないよ」「したこと日記ではなく、『考えたこと感じたこと日記』を書きなさい」と言ったことがあります。

その頃の日記には「今日、僕は金魚を見ていました。金魚鉢の金魚は僕が見ていることを知らず悠々と泳いでいました。こうして金魚を見ている僕のことも、上から見ている何かがいるのかなあ」「僕は庭ではいつも裸足で遊びます。土はとっても温かいけど、裸足になったことの無い人には、この温かさ分からないだろうなあ」とありました。まさに考えたこと、感じたこと日記でした。

彼の日記の一つ一つに「早寝早起き」「本を好きになるには」「テレビの獅子の時代が終わった」「夕日」「うちの金魚」「あーあ落ちちゃった」「やっと勝った!」「冬はやっぱりプラモデル」「自分で考えゲーム」「うたたね」「リトルリーグのためなら」・・・等々「題」が付いています。

三年生の冬休みの日記 (12月30日)
「日記」
「冬休みの勉強で一番楽しいのが、この日記です。日記を書き終わると、いつもお母さんに見せるのですが「だんだん上手になってきたね」と言われます。そうなると、なおさら日記が好きになってきます。これからは、春休みにも日記を書くつもりです。学校がある日は、日曜日だけ書くことにしました。なぜか不思議に日記を書いていると、次にどういうことを書くかがすぐに頭にピンときて、パッパと日記を書いてしまいます。これからも日記は続けていきたいと思います。」

とありますように彼は日記を書き続け、4年生の夏休みには先生が次のように誉めて下さった日記へと続きます。いつか機会がありましたらご紹介したく思います。

担任の先生より
大変楽しく読みました。おもしろかった理由はこんなところにあるのかな。

・ 毎日、日記の題をかんがえていること。
・ きどらないで、自分の気持ちや、考え、思ったことを素直にかいていること。
・ 自分以外の人を登場させて、会話や様子をかいていること。それについての保苅君の考えがかいてあること。
・ 文のつくりが読みやすく、すじが分かること。

そのほか沢山ありますが、保苅君らしさがよく出ています。そこが一番気に入りま
した。また、ノートに続けて書いてください。楽しみにしていますよ。

From 母・保苅桂子

Monday, May 10th, 2010

>> 息子・実との思い出

彼の幼い日々は好奇心と楽しさに溢れていました。幼い頃から彼の心も体も束縛を嫌い、ボタンのない洋服を好み、庭ではいつも裸足で遊んでいました。てんとう虫や蟻と終日遊び、金色の蜘蛛を見つけて興奮し「お母さん土ってとっても暖かいんだよ。裸足になったことのない人には、この暖かさは分からないね」と、得意そうでした。

夜,ベッドに入ってからも「今日の月はとってもきれいだよ。見てごらん」と、階下にいる私達に声をかける子でした。絵画展でもコンサートでも彼はとても静かでした。本も沢山読みました。小学校4年生時、彼が感動した本の著者「灰谷健次郎」の講演会にも行きました。海で泳ぐのも大好きでした。活発でしたが思慮深く好奇心旺盛なとても楽しい子供でした。

小学5年生の時には歴史の授業で習った「金印」が見たいと、東京上野の国立博物館まで一人で鈍行に乗って行きました。少し不安そうにしていたので「目と耳と口があれば何処にだって行けるよ」と励ますと「じゃあ鼻はいらないね」と、笑いながら出かけていきました。朝と夕で代わる乗客の様子、清水トンネルの中にある駅の話・・・、そんな話を聞くのが私は大好きでした。だから校則に違反しても、彼のやりたいということは何でもさせてやりました。夜中の3時に起きて、長いサオを背に1時間も自転車をこいで魚釣りにも行きました。「まるで佐々木小次郎だね」とからかったことが昨日のことのように思われます。中学生のときには佐渡1周の自転車旅行もしました。

高校の合格発表を見たその足で、彼は京都・奈良の一人旅に出かけました。清水寺から「開場と同時に入った寺には僕ただ一人。すがすがしさと静けさの中で感動のあまり涙が溢れた。この旅を許してくれた両親に感謝したい」というのが彼の第一声でした。京都の寺々の庭の美しさにも感動の声を上げていました。梅原猛の「法隆寺の秘密」を読み、本を持参して行った法隆寺からの報告は、夢殿のこと、聖徳太子のこと、宿坊のおばさんのこと、貸し自転車で廻った奈良の寺々のこと・・・、彼の報告は興味と感動に溢れた本当に楽しいものでした。彼は何でも話してくれました。会話の多い家庭でした。

新潟は狭いといって東京の大学で学び、日本も狭いとオーストラリアに飛び、広大な大地で一心不乱に学び、遊び、彼はまるで風のように爽やかに私の元から去って行ってしまいました。彼の何ものにも束縛されない柔らかな精神はあらゆるものを吸収し、人を、自然を、大地を、月を、星を・・・全てを愛する豊かな人となりました。彼の最大の幸せはアボリジニの人々に出会ったことでしょう。

彼の人間関係に上下はありませんでした。親戚の叔母さんの話もおじいちゃんやおばあちゃんの話も、彼は誠実に聞きました。豊かな精神性を持った彼の文章が美しいのは当然です。私はもう二度と彼のような若者に出会うことはないでしょう。

もし病を克服出来たなら学問とは全く関係ない本を書きたいと、病床でその構想を楽しそうに語っていました。書いて欲しかった、読みたかったと、思うのは私だけではないでしょう。