Archive for the ‘6. UNSW/ANU’ Category

From 飯嶋秀治

Friday, August 20th, 2010

私が生前、保苅さんと直接お会いしたのは、4回だけだったと思う。

2000年6月24日、国立民族学博物館オーストラリア研究会では、もう彼の博士論文の骨子は固まっており、10枚のレジュメに2枚の地図をもって発表に臨んでいた。その研究史のまとめ方の手際の良さと、先住民の語りの興味深さに引き込まれたのをよく覚えている。グリンジの人々のアウトステーション運動が、先行研究の強調してきた経済や政治の側面のみではなく、グリンジの狩猟採集の慣習や、ドリーミング(彼は先住民独自の世界感覚の仕方を、僕らの常識的な「時間」に投影してしまう「ドリーム・タイム」という術語を意識的に避けていた)に基づいた判断の側面を強調した発表をした。その膨大な先行研究サーヴェイの蓄積以上に、先住民調査の倫理的なマナーに目を見張った。研究会にはこれまで研究会をリードしていた先輩たちが多く列席していたが、皆それぞれの深みで何らかのインパクトを受けており、まさに「期待の新人」の登場といった感じであった。

2000年9月、私がキャンベラに着いた日、町をあちこちを歩いているとANUに向かう私とは反対方向に向かう保苅さんを見かけた。風貌は長髪、痩身で、やや寒くもあり黒いタートルネックを来て市街地の公園へ向かって消えた。「坂本龍一みたいだなぁ」と思った。実は初めてキャンベラで先住民を見かけた際、数名いた先住民の一人から、胸を小突かれた事があったのだが、その話をしたところ、「じろじろ見ていたからじゃない?」と完全に先住民サイドから見ているのが今から思い返すと意味深い。その日は、彼がシェアメイトと暮らしている家でディナーを作る番だったとかで、日の沈むキッチンでナシゴレンを作った。彼は指で米の水の量を計ると「料理ができると良いのは、アボリジニのところに行ったときに御馳走をふるまえる事なんだよね」と言い、ベジタリアンのシェアメイトのことを考え、肉抜きのナシゴレンを作った。

2001年3月、キャンベラANUキャンパスの当時の彼の研究室にはCDが机の上や脇に山積みのようになっていた。私がキャサリンに滞在したとき、キャサリンの有名な温泉で先住民の少年たちに出会ったのだが、「ミノ、知ってる?」と言われ、まさかと思いながら「ミノって、ホカリ・ミノの事?」と訊き返すと「そう」と言われ、「えっ、なんでミノのこと知ってるの? まさかグリンジ?」とまた訊き返すと、「そう! 僕たち、ダグラグから来たんだ!」という展開になったのだった。驚くべきはその後の展開で、その後、別の先住民少年達に、銀行から下ろしてきたばかりの500ドルを盗まれ、その時、犯人の同定に協力してくれたのがこのグリンジ少年で、そのおかげで私は300ドルを取り返したのである。その話を聞くと保苅さんは喜んで、「じゃぁ今頃ダグラグは大騒ぎで、次に行ったら大物語になってるかもね」と笑って話した。

2001年7月22日、国立民族学博物館オーストラリア研究会では、彼は既に博士論文を提出し、オーストラリアの研究者、特に歴史家から複数の高い評価を受取っていたので、既に次のテーマとしてアボリジニと近代の経験を「矛盾」と「思惟」という観点から論じた。この時の発表は前回と打って変わって理論的な抽象度の高い議論であった。この時の飲み会の時だったかと思うが、研究会後の飲み会の席で、「僕、じつは、これからトイレの落書き研究って真面目にやりたいんですよね」と喜々として語っていたのも覚えている。「関心の幅が広いなぁ」と思った。

私が直接会って覚えている保苅さんはこのようなものである。最初の出会いから最後に至るまで、私の中の保苅実さんは、なによりも惜しみなく与える人であったように思う。

From 永山のどか

Monday, May 10th, 2010

私は一橋大学の藤田幸一郎先生のゼミで保苅さんのお世話になりました。ただ私が大学院に進学したのは、2000年ですので、保苅さんは既にオーストラリアにいらっしゃいました。実際にお会いしたのは、途中帰国なさってゼミに参加されていた4~5回だったと思います。回数としてはあまり多くはないのですが、保苅さんの「登場」は私にとって強烈なものでした。

保苅さんはゼミの報告で、オーストラリアのアボリジニへの謝罪問題について「連累」の重要性をテーマにお話なさいました。保苅さんは「連累」という概念を学問的に説明して下さいましたが、実生活のレベルでは(保苅さんが皆に贈って下さった手紙にも書いてあった)人と人とが「繫がる」ということを意味しているのだと思います。広い視野をもった報告だと、先生が感心されたのを今でもはっきり覚えています。また、声がとても大きかったこと、報告の途中の区切りの良いところで、ペットボトルの飲み物をごくごくと飲んでいらっしゃったことも覚えています。飲み終わりに「はあ」と気合を入れ直して、報告再開です。

保苅さんがゼミに参加されていた時は必ず、その後に食事に行きました。保苅さんがゼミの皆に声をかけてくれるのです。藤田ゼミは今でも1年に1~2回懇親会を開くのですが、そのきっかけを保苅さんが作ってくださったのだと思っています。

また、去年、国立駅のホームで『ラディカル・オーラル・ヒストリー』を真剣に読んでいる男性(学生だと思います)を見ました。

From 酒井順子

Monday, May 10th, 2010

保苅さんにお会いしたのは、2002年か3年のことでした。最初は、慶応大学の松村高夫先生のゼミで保苅実さんの発表を聞き、そして、その後だったと思いますが、私の指導教授だったポール・トンプソンが慶応大学の招聘で日本に来たとき、慶応大学でのセミナー、東京外国語大学のシンポジウムでお会いしました。確か、この3回だけだったとおもいます。

慶応でのセミナーにおいて、白蛇の話や洪水の話を聞いたときには、私自身がイギリスでのライフストーリー・インタビューによるオーラル・ヒストリーの枠しか知らなかったので、よく理解できなかったかもしれません。しかし、実さんの情熱的な語り口、そしてオープンな話しかた、そしてなぜか髪の一筋が赤くなっていて、とてもおしゃれな感じがしたのが印象的でした。とにかく、強烈な印象でした。

最初にあったとき、「僕の研究もオーラル・ヒストリーですよね?」とおっしゃったので、「オーラル・ヒストリーを狭く定義する必要はないと思います」といったような、私の指導教授がいつも言っていたことを繰り返したことを覚えています。

その後、自分自身も頼まれて、口述文化について書くことになったとき、イギリスのオーラル・ヒストリーの先駆者、「ジョージ・ユアート・エヴァンス」の作品を読む機会がありました。彼の著作の中に、「成長する石」の話が出てきます。その石は19世紀に掘り出された石で、発見された当初はこぶし大だったのですが、毎年、成長し、今では2メートルぐらいの石になっています。村人は、その両端が少し浮いている石について、「去年は猫が石の下を通ったけれど、今年は犬が通ったと話していた」そうです。

もし、保苅さんの本を読んでいなかったら、私はこの石にさほど興味を惹かれなかったと思います。その石の話の意味を探りたいとおもって、私はサフォークのその村まで訪ねていってみました。結論としては、20世紀に入っても相対的に遅れた地域の村人が、石だらけの農地を耕していた苦労を象徴する話だったのだろうとおもい、自分の解釈を論文の中に書いてみました。

もちろん、保苅さんのように深い考察にはなっていませんが、それでも、保苅さんの研究が私たちに与えたインパクトはとても大きかったと思います。もし、ご病気になられなかったら、もっともっと私たちにインパクトを与えてくれたことと思います。

道半ばにして倒れられた保苅さんの無念はとても強く伝わってきますが、私たちにもとても無念な気持ちを持たせた人だと思います。